鶴丸についてアメリカ人100人に訊いてみた

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はいはい鶴丸

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鶴丸の重要度チェック

暑くてかなわない。こんな時は屋内施設に逃げ込むべきだろう。図書館で書物を漁るのもよし、資料館で過ごすのもよしだ。散策よりも知識を詰め込んで脳に汗をかこう。もう何度目だろう、江東区白河の深川資料館に足を運んだ。展示室に入るとすぐ、狭い路地をさらに窮屈にする天水桶に出会う。

玄蕃桶も常備されているが、商家の前などに置かれている桶は、ほとんどが木製だ。船宿の「升田屋」さんのは、家紋入りの桶で、江戸情緒にあふれている。水運都市江戸の船宿は、今で言うタクシープールのような場所で、飲食を提供したり、休憩も出来たという。

すぐ隣りの、やはり船宿の「相模屋」さんのところにも桶がある。正面には、「水」と表示されている。この時代には、天水桶があって当たり前の光景だったのだ。

JR両国駅前にも木製の桶があり、江戸情緒を醸し出している。

皮肉にも、現代において一番燃えやすいのは、この木製の桶ではなかろうか。まさに「火の用心」だ。

続いては、ランダムにアップしてみよう。さいたま市西区島根の島根氷川神社は、弘仁2年(811)の鎮座とされ、江戸期には社領15石の御朱印状を拝領している。最近の改築であろう、社殿は真新しい。(掲示板を要約)

玄蕃桶は木製、本体は陶器製、台座は鋳鉄製という、組み合わせがアンバランスな桶だ。台座が鋳鉄製というのはかなり珍しいが、恐らく、かつては鋳鉄製の天水桶があったのであろう。

中央区湊の鉄砲洲稲荷神社。創建は、承和8年(841)とも云われるが、詳細は不明。江戸名所図会には、「この地は、廻船入津の湊にして、諸国の商い舟、普(あまね)くここに運び、碇(いかり)を下して、この社の前にて、積むところの品をことごとく問屋へ運送す」とある。

湊の入口に鎮座する神社として、人々の信仰を集めてきたのだ。また、図会の画像の中央下に描かれた富士塚は、区内唯一の文化財だが、社殿より大きく誇張して描かれている。現在の高さは5.4mであるという。

大きくて迫力ある天水桶だが、コンクリート製で、残念ながらどこか味気ない。第一区、「六番組 す組」が奉納している。

「弘化3年(1846)5月吉日造之 昭和18年(1943)3月8日第二次世界戦争に供出 昭和27年5月吉日再造之」と表示されている。金属製であったに違いなかろうが、当初はどんな桶があったのだろう、興味津々だ。

さいたま市桜区西堀にある西堀氷川神社。地域の鎮守として応永年間(1394~)に武蔵一宮の氷川神社を勧請した社とされる。ここには、江戸時代の有名な和算家・関孝和の流派の算額がある。市指定の有形文化財であるが、縦61cm、横94cmというから、思いのほか大きい。

算額とは絵馬などに数学の問題や解法を記して、神社や仏閣に奉納したものだ。平面幾何図形に関するものが多く、学者のみならず、一般の数学愛好家も、あちこちの寺社に奉納している。(境内掲示を要約)

ここの天水桶は、明治生まれの檀家が、自分の米寿を記念して創作し平成3年に奉納している。起伏に富んでいて、飛び出さんばかりの躍動的な龍が芸術的だ。実に見応えのある桶だが、製造方法は如何に・・

紋様を、薄い銅板の裏側から叩き出し、最後にそれを桶の外周に丸め込んで、リベットで固定してあるのだ。力作である、お見事。これもいずれ文化財になるかも知れない。

続いては、足立区加平の浄土宗圓泉寺。寺伝では、正保3年(1646)の開山とされていて、阿弥陀如来立像を本尊として安置している。

御影石であろうか、大きな盃型で、光沢が艶めかしい。下部には「上がり藤」の変形のような寺紋が陰刻されている。注ぎ込まれるのが水では無く酒だったらなどと、不埒な事を考えてしまいそうだ。

埼玉県春日部市粕壁の総鎮守、春日部八幡神社。元弘年中(1331~)に、この地域の武将であった春日部氏により、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したものと言われている。

「昭和54年(1979)10月15日」の造立で、作者不明の鋳鉄製だが、八角形であるのは珍しい。

昭和57年10月には、「御鎮座六百五十年祭」が行なわれ、社殿等の大修造工事が実施されているが、その3年前に、地元の不動産業者が奉納している。

同じく、春日部市粕壁東の真言宗智山派、真蔵院。ここには、鋳鉄製の天水桶があるが、ここでまた川口市の新たな鋳造者に出会った。

寺紋は、「丸に右離れの立ち葵」だ。拡大してよく見ると、茎の右側にだけ縦線が通っているが、左側だけのものもあるようだ。この紋で著名なのは何と言っても、徳川四天王の「本多忠勝」だ。

三河武士にして譜代中の譜代で、歴戦57度の中で一度の負傷も無かったという強者であったが、京都賀茂神社の神官の出自であったため、家康の「葵紋使用禁止」に対して、一歩も譲らなかったという。

鋳出しは、「武刕(ぶしゅう)川口町 芝川鋳鉄製造所 昭和6年(1931)6月吉日」で、「本堂改築記念」での奉納であった。昭和30年代の話であるが、国立競技場の聖火台の作者・川口鋳物師の鈴木萬之助は、「芝川鋳造株式会社」と関わりを持っていた()。この「芝川鋳鉄製造所」も関連の企業であろう。

続いての画像は、品川区小山の法華宗陣門流、長応寺の本殿前の画像。開山は文明11年(1479)で、その後、三河国上ノ郷城の鵜殿永忠の養女おとくの方が、徳川家康の側室となった事で、日比谷門内に再興されたという。現在の建物にも「葵紋」が見られるのは、そのためであろう。

ここの天水桶は、「大正13年(1924)6月」製の鋳鉄製で、「日喜代」の時世であった。この流派の寺紋は、日蓮宗と同じで井桁に橘だ。法華宗法に規定は無いようで、通常、「鶴丸」や「六本桜」紋が多いようだが、これは日蓮聖人の系図をたどると、諸説あるからだ。

「芳荷山」はこの寺の寺号で、「東京日本橋馬喰三」丁目の施主が奉納している。その下に「山寅製」の印影が見られるが、彼が鋳造者の川口鋳物師、山崎寅蔵だ()。

一方、ここの寺務所前には、江戸時代に鋳造された天水桶がある。表示は、「鋳物師 武州川口住人 海老原市右衛門忠義 文久4年(1864)春」だ。

川口市の川口神社の狛犬には、「文久元年 海老原市右衛門」の陰刻が見られる()。また、戦時に金属供出()されたが、同神社の鳥居には、「世話人 海老原市右衛門」と刻まれていたという。桶の鋳造者と同一人物であろう。

この人は、の通り、「萬延2年(1861)2月」に、東京高尾山の奥の院の桶も鋳造しているが、その鋳出しは、「鋳物師川口住 市右衛門」であった。

また、鈴木茂の「川口の鋳工と作品」を見ると、戦時に金属供出したのであろう、すでに現存はしないが、「安政3年(1856)9月吉日」には、千代田区の神田明神の天水桶も鋳造した事になっている。その鋳出しも、「市右衛門」であって、名字は表示されていない。

また、文政(1818~)、嘉永、文久、明治年間に記された、「諸国御鋳物師姓名記」や「諸国鋳物師控帳」などを見ても、「海老原」あるいは、「市右衛門」の表記は登場しない。なぜ下の名前だけなのだろう。

鋳物師達の営業権を統括していた、元締めの京都真継家()の傘下ではなかったのだ。それは営業地の侵害であり、名字の非表示は、恐らくそれをはばかったのであろう。

東急池上線には「御嶽山駅」があるが、駅名の由来となっているのが、大田区北嶺町の御嶽神社だ。私も案内してもらったが、本殿の彫刻は見事で、区指定の有形文化財になっている。

同神社のホムペによると、『創祀は、嶺村(現嶺町地区)ができた天文4年(1535)頃と謂われる。当時は小社であり祠に近いものであったと推察されるが、後の天保年間に木曾御嶽山で修業をされた一山行者が来社して以来信者が激増し、天保2年(1831)に現在の大きな社殿を建立し御霊を遷座した。

信者の中には江戸の豪商なども多くあり、かなりの寄進がされたようである。関東一円から木曾御嶽山を信仰する信者たちが多数訪れ、その勢いは江戸、明治、大正、昭和へと続く。「嶺の御嶽神社に三度参拝すれば、木曾御嶽山へ1回行ったのと同じ」と言われていたようだ』とある。

ここに、どこかで見かけたような天水桶があったのだ。2種の神紋が見られ、「御嶽山 末廣万人講」が奉納している。「嘉永7年(1854)11月吉日」で、「川口 願主 増田安次郎」、「南八町堀 同増田利助」であった。

増田家の過去帳には、「3代(当主) 安政5年(1858)7月11日卒 金平」とあるが、この桶の願主であろうか。また、「4代(当主) 明治26年(1893)4月20日卒 2代目安次郎 俗名利助」となっているが、この人による鋳造だろうか。両名は通った幕末の大砲鋳造鋳物師だった訳で、桶の鋳造も同人であるとしてよかろう。()

で訪館した、川口文化財センターの倉庫に眠っていた桶と、デザインも、製造日も全く同じなのだ。鋳造者と思われる増田安次郎は、予備としてだろうか、失敗作なのだろうか、とにかく、同じものを3個以上は製作していたのだ。そういう目で見なかったので、倉庫に眠っている桶が破損しているかどうかなど確認できていない。いつかまた折を見て、内側や裏側を覗き込んでみることにしよう。つづく。

  


鶴丸 関連ツイート

ちなみに私が鶴丸国永って罪な男だよねって言ってて噛んだんですよね。
鶴丸罪永。
ほらほら鶴丸国永ですよ
れあですよ
墓暴いてまで求められた鶴丸国永ですよ
鶴丸「雪の降った夜に突然、石切丸が部屋に来て、「どうしたんだ?」って聞いたら白い息をはずませて寒さで少し赤くなった顔をして、俺を見ながら、「・・・会いたかったんだ・・・」って、一言。思わず抱きしめた。

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