難民にはめがないひとのページ♪
ストップ!難民!
またやりきれない事件が起きてしまった。
新宿区の児童養護施設の施設長が元入所者に殺害された、という事件である。
容疑者は22歳。 数年前までこの養護施設に入所しており、昨年9月あたりまではアパート住まいをしていたが、職を失い家賃を滞納して事件当時はネットカフェ難民だった、という。
殺された大森さんは大学卒業後に児童指導員となり、数年前から若草寮で施設長を務める傍ら専門書も著し、施設で育った子供の自立支援についての本は私も持っている。 施設を出た後の子供たちの未来について真剣に考えていた大森さんが、施設を出て自立に失敗した元入所者の手にかかって殺害されてしまったことは、本当に残念でならない。 やりきれない思いがするのである。
幼少期に親に死に別れたり、児童虐待にあったりして、家庭で育つことのできない子供たちが養護施設や里親のところで「社会的擁護」を受ける。 その子供たちは、18歳になると社会的擁護からはずれ、自立をしなければならない。
昔は、養護施設を出た18歳になりたての若者は、保護者も保証人もないまま社会に放り出され、アパートを借りるのも、仕事を見つけるのも、普通の家庭で育った人には理解ができないぐらい苦労をして生活を始めなくてはならなかった。
今は、大森さんらの研究や働きかけにより、18歳で施設を出る人たちの「自立支援」に対して行政も昔よりは対策を考えるようになってきており、ピアサポートというか、施設で育った当事者たちによる「居場所」も昔に比べると増えてきており、助成金などもでるようになってきた。
この問題は、イギリスでも注目されていて、社会的擁護を受けた人たちを「ケア・リーバー」と呼んで、各地方自治体にケア・リーバーたちのフォローアップを義務付けている。 要するに、彼らの就職、住まい、その他社会人として適応できているかどうかの支援を提供することになっている。
幼い時に、家庭内に幸せな子供として育つ環境がなく、やむを得ずに施設や里親と言う社会的擁護によって育てられた子供たちが、18歳になったとたんに自立ができるかといえば、それは大変に難しいものがあるだろう。
いまは、大学に通ったりしている子供は18歳を過ぎても施設にとどまることも許されることがあるというが、通常は高校を出た段階、あるいは高校を中退した段階で施設を出なくてはならない。 つまり、社会人として、経済的自立を強いられるのである。
1月に、府中刑務所に見学にいった。 またいつか詳しく書こうと思うが、その時に聞いた話では、再犯を犯して入所している人は3割を超す、ということだった。 犯罪を犯し、刑務所で服役してシャバに戻っても、そのあと就職し、経済的自立ができて住むところが得られなければ、彼らは再犯してまた戻ってくる。
社会に彼らに対する受け皿がないことが、再犯につながっている、というお話だった。 刑務所の中では作業をして、色々な技術を身に着けることができる。しかし、それを生かすことができなければまた刑務所に戻ってくるしかない、ということだろうか。 彼らの居室を見せてもらった時、私が一番興味をもったのは、彼らの個別の本棚であった。
相部屋に住んでいても、一人一人の服役者は机と本棚と布団一式が与えられている。 その彼らがどんな本を読んでいるかに一番興味があったのである。 中国語の教科書があったり、新田次郎があったり、へええ、と思ったのは「こち亀」の漫画が数冊置いてあったり。 そんな中にITや技術系の参考書があったりして、退所した後の生活を考えてのことなんだろう、と本の持ち主に思いを馳せた。
つらい環境から子供たちを救い出し、社会的擁護に入れて育てる。 しかし、行政によるケアが終わった後、厳しくてつらい社会に、家庭という経験を持たない子供たちが、家族や実家という支援者や避難場所を持たないで18歳で出ていくのである。 一般の人たちが当たり前に持っている常識も、知識もない子供たちである。
また虐待を受けた子供たちは、「愛着」を形成することができず、人に対する信頼感がなかなか育たない。 ネグレクトを受けて育った子供はコミュニケーション障がいを持つことも多く、学校や職場で人間関係に問題をきたす場合がある。 就職できても長続きしないことが多いのである。
児童養護施設で長く仕事をつづけた大森施設長は、そのことを身をもって知っていたのだ。 だから施設で育った子供の自立支援の大切さを本に著し、機会があるごとに多くの人に訴えてきたのだ。
虐待を受けた子供が引き起こす問題は、そもそもは大人の責任なのである。 まずは、加害親である。 そして、親が加害者になってしまう背景を放置していた行政であり、社会である。
家庭で愛されず、暴力を受けたり育児放棄を受けた子供たちは、常に緊張を強いられ、大人への信頼感を醸成できない。 行政介入があって保護され、社会的擁護を受けるにしても、日本では7-8割は大型施設での養育で、家庭的な養育を受けることは欧米に比べて少ない。
施設での養育が必ずしも悪いわけではないが、乳幼児など幼い子供であればあるほど、担当の職員が昼と夜で当番制だったり、数年でいなくなったりする環境は適切ではない。できれば里親養育を受けて家庭的な環境で育つか、特別養子縁組を受けることが望ましい。
、もちろん虐待を受けた子供がすべて、養護施設で社会不適応な人間に育つわけではない。 むしろ、そういう人の方が少なく、ほとんどの子供は施設で職員にしっかりと面倒を見てもらい、まっとうな社会人に育つのだ。 しかし、この子たちが施設を出た後に直面する社会の厳しさは、やはり一般の家庭で育つ子供たちの比ではないことは、自立支援ホームを経営している人たちの書いたものを読むとわかるのである。
逆境から救い出されて施設で数年過ごした子供たちは、社会に出た後に受ける差別や
った時に相談する人や場所のない厳しさに直面するのである。 この子たちには、経済的資源だけでなく、教育的資源も、人的資源も、社会的資源もない。 資源のない人間は、逆境に対するリジリエンス(跳ね返す力)を持てないのである。 ギリギリの時に、手を差し伸べてくれる家族や友人、コネで仕事を見つけることもできなければ、地域に相談にのってくれる知り合いもいないからである。
安定した職業に従事することが難しく、経済的自立が破綻し、住まいを失ってネットカフェ難民になり、自暴自棄になった22歳の容疑者が、その怒りを向けた先は、そういう子供たちの行く末を真剣に考えてなんとかしようとしていた大森さんだった。 なんという皮肉、なんというやりきれない展開だろうか。 この子は、自分の人生が行き詰った時に頼っていける親も、怒りをぶつけるべき親もいなかった。 だから自分を育てたはずの施設に戻り、そこで刃物をふるったのである。 「施設に恨みがあった。誰でもよかった」と。
虐待は、予防できるものならするに限るのである。 始まってしまった虐待は、もうすでに子供の精神にダメージを与えてしまっている。 ただ一度の暴力でも、それが子供の心に残す傷は大きい。 自分を守り、慈しんでくれるべき大人である親が、自分を攻撃してくるのである。 自分を愛し、面倒を見てくれるべき大人である親が、自分の空腹や寒さについて無関心なのである。 子供は心の中に悲しみ、怒り、恨みを抱えて育つだろう。 行政が介入して保護しても、この子供の心の傷をいやすのは並大抵ではないだろう。
殺人の動機の詳細はまだわからない。 が、大森施設長が過去に彼にひどいことをしたとは考えられない。 今回も容疑者に対し、「どうしたんだ?」と声をかけていたという。 今、養護施設は、ケア・リーバー、元入所者が退所後に問題を抱えていたら支援をすることも義務付けられているというが、これもまた、予算やリソースを増やさずに、仕事だけ押し付けても、なかなか回っていかないだろう。
たとえば、普通の18歳であれば、仕事でうまくいかなければ親や友人が相談に乗るだろう。 それに代わる人材をどこかに用意しておくこと。 出身の施設でもよいし、NPOでもよい。 また無職になれば、通常であれば実家にもどったり、親から生活費を借りたりするのは普通の若者である。 それにかわる支援ができることも必要であろう。 英国にはそういうチャリティが存在する。
18歳まで社会的擁護を与え、そのあとはポイと社会に放り出すのではなく、自立支援という部分にもっと力を入れて、立派な納税する市民に育つまで、親に代わる支援をすることも、国家と社会の責任かもしれない。 18歳なんて、まだほんの子供なのである。 親の育児が不適切と言って、親から切り離して引き取ったのであれば最後まで面倒を見ることが大切なのではないか。
だからといって、自分の人生がうまくいかないことをすべて人のせいにし、刃物を持って自分の面倒をみてくれた施設に乗り込むようなことを許すというのではない。 そういうことが発生しないよう、最後の詰めのところまでやってこそ、一人の自立した社会人となるまで見届けてこその、社会的擁護なのではないか、と思うのである。
そして、経済学的に言えば、反社会的行動をとらない納税者を育ててこそ、かけたお金のコストパフォーマンスが良い、と言えるのではないだろうか。
難民をもてはやすデイトレーダーたち
またやりきれない事件が起きてしまった。
新宿区の児童養護施設の施設長が元入所者に殺害された、という事件である。
容疑者は22歳。 数年前までこの養護施設に入所しており、昨年9月あたりまではアパート住まいをしていたが、職を失い家賃を滞納して事件当時はネットカフェ難民だった、という。
殺された大森さんは大学卒業後に児童指導員となり、数年前から若草寮で施設長を務める傍ら専門書も著し、施設で育った子供の自立支援についての本は私も持っている。 施設を出た後の子供たちの未来について真剣に考えていた大森さんが、施設を出て自立に失敗した元入所者の手にかかって殺害されてしまったことは、本当に残念でならない。 やりきれない思いがするのである。
幼少期に親に死に別れたり、児童虐待にあったりして、家庭で育つことのできない子供たちが養護施設や里親のところで「社会的擁護」を受ける。 その子供たちは、18歳になると社会的擁護からはずれ、自立をしなければならない。
昔は、養護施設を出た18歳になりたての若者は、保護者も保証人もないまま社会に放り出され、アパートを借りるのも、仕事を見つけるのも、普通の家庭で育った人には理解ができないぐらい苦労をして生活を始めなくてはならなかった。
今は、大森さんらの研究や働きかけにより、18歳で施設を出る人たちの「自立支援」に対して行政も昔よりは対策を考えるようになってきており、ピアサポートというか、施設で育った当事者たちによる「居場所」も昔に比べると増えてきており、助成金などもでるようになってきた。
この問題は、イギリスでも注目されていて、社会的擁護を受けた人たちを「ケア・リーバー」と呼んで、各地方自治体にケア・リーバーたちのフォローアップを義務付けている。 要するに、彼らの就職、住まい、その他社会人として適応できているかどうかの支援を提供することになっている。
幼い時に、家庭内に幸せな子供として育つ環境がなく、やむを得ずに施設や里親と言う社会的擁護によって育てられた子供たちが、18歳になったとたんに自立ができるかといえば、それは大変に難しいものがあるだろう。
いまは、大学に通ったりしている子供は18歳を過ぎても施設にとどまることも許されることがあるというが、通常は高校を出た段階、あるいは高校を中退した段階で施設を出なくてはならない。 つまり、社会人として、経済的自立を強いられるのである。
1月に、府中刑務所に見学にいった。 またいつか詳しく書こうと思うが、その時に聞いた話では、再犯を犯して入所している人は3割を超す、ということだった。 犯罪を犯し、刑務所で服役してシャバに戻っても、そのあと就職し、経済的自立ができて住むところが得られなければ、彼らは再犯してまた戻ってくる。
社会に彼らに対する受け皿がないことが、再犯につながっている、というお話だった。 刑務所の中では作業をして、色々な技術を身に着けることができる。しかし、それを生かすことができなければまた刑務所に戻ってくるしかない、ということだろうか。 彼らの居室を見せてもらった時、私が一番興味をもったのは、彼らの個別の本棚であった。
相部屋に住んでいても、一人一人の服役者は机と本棚と布団一式が与えられている。 その彼らがどんな本を読んでいるかに一番興味があったのである。 中国語の教科書があったり、新田次郎があったり、へええ、と思ったのは「こち亀」の漫画が数冊置いてあったり。 そんな中にITや技術系の参考書があったりして、退所した後の生活を考えてのことなんだろう、と本の持ち主に思いを馳せた。
つらい環境から子供たちを救い出し、社会的擁護に入れて育てる。 しかし、行政によるケアが終わった後、厳しくてつらい社会に、家庭という経験を持たない子供たちが、家族や実家という支援者や避難場所を持たないで18歳で出ていくのである。 一般の人たちが当たり前に持っている常識も、知識もない子供たちである。
また虐待を受けた子供たちは、「愛着」を形成することができず、人に対する信頼感がなかなか育たない。 ネグレクトを受けて育った子供はコミュニケーション障がいを持つことも多く、学校や職場で人間関係に問題をきたす場合がある。 就職できても長続きしないことが多いのである。
児童養護施設で長く仕事をつづけた大森施設長は、そのことを身をもって知っていたのだ。 だから施設で育った子供の自立支援の大切さを本に著し、機会があるごとに多くの人に訴えてきたのだ。
虐待を受けた子供が引き起こす問題は、そもそもは大人の責任なのである。 まずは、加害親である。 そして、親が加害者になってしまう背景を放置していた行政であり、社会である。
家庭で愛されず、暴力を受けたり育児放棄を受けた子供たちは、常に緊張を強いられ、大人への信頼感を醸成できない。 行政介入があって保護され、社会的擁護を受けるにしても、日本では7-8割は大型施設での養育で、家庭的な養育を受けることは欧米に比べて少ない。
施設での養育が必ずしも悪いわけではないが、乳幼児など幼い子供であればあるほど、担当の職員が昼と夜で当番制だったり、数年でいなくなったりする環境は適切ではない。できれば里親養育を受けて家庭的な環境で育つか、特別養子縁組を受けることが望ましい。
、もちろん虐待を受けた子供がすべて、養護施設で社会不適応な人間に育つわけではない。 むしろ、そういう人の方が少なく、ほとんどの子供は施設で職員にしっかりと面倒を見てもらい、まっとうな社会人に育つのだ。 しかし、この子たちが施設を出た後に直面する社会の厳しさは、やはり一般の家庭で育つ子供たちの比ではないことは、自立支援ホームを経営している人たちの書いたものを読むとわかるのである。
逆境から救い出されて施設で数年過ごした子供たちは、社会に出た後に受ける差別や
った時に相談する人や場所のない厳しさに直面するのである。 この子たちには、経済的資源だけでなく、教育的資源も、人的資源も、社会的資源もない。 資源のない人間は、逆境に対するリジリエンス(跳ね返す力)を持てないのである。 ギリギリの時に、手を差し伸べてくれる家族や友人、コネで仕事を見つけることもできなければ、地域に相談にのってくれる知り合いもいないからである。
安定した職業に従事することが難しく、経済的自立が破綻し、住まいを失ってネットカフェ難民になり、自暴自棄になった22歳の容疑者が、その怒りを向けた先は、そういう子供たちの行く末を真剣に考えてなんとかしようとしていた大森さんだった。 なんという皮肉、なんというやりきれない展開だろうか。 この子は、自分の人生が行き詰った時に頼っていける親も、怒りをぶつけるべき親もいなかった。 だから自分を育てたはずの施設に戻り、そこで刃物をふるったのである。 「施設に恨みがあった。誰でもよかった」と。
虐待は、予防できるものならするに限るのである。 始まってしまった虐待は、もうすでに子供の精神にダメージを与えてしまっている。 ただ一度の暴力でも、それが子供の心に残す傷は大きい。 自分を守り、慈しんでくれるべき大人である親が、自分を攻撃してくるのである。 自分を愛し、面倒を見てくれるべき大人である親が、自分の空腹や寒さについて無関心なのである。 子供は心の中に悲しみ、怒り、恨みを抱えて育つだろう。 行政が介入して保護しても、この子供の心の傷をいやすのは並大抵ではないだろう。
殺人の動機の詳細はまだわからない。 が、大森施設長が過去に彼にひどいことをしたとは考えられない。 今回も容疑者に対し、「どうしたんだ?」と声をかけていたという。 今、養護施設は、ケア・リーバー、元入所者が退所後に問題を抱えていたら支援をすることも義務付けられているというが、これもまた、予算やリソースを増やさずに、仕事だけ押し付けても、なかなか回っていかないだろう。
たとえば、普通の18歳であれば、仕事でうまくいかなければ親や友人が相談に乗るだろう。 それに代わる人材をどこかに用意しておくこと。 出身の施設でもよいし、NPOでもよい。 また無職になれば、通常であれば実家にもどったり、親から生活費を借りたりするのは普通の若者である。 それにかわる支援ができることも必要であろう。 英国にはそういうチャリティが存在する。
18歳まで社会的擁護を与え、そのあとはポイと社会に放り出すのではなく、自立支援という部分にもっと力を入れて、立派な納税する市民に育つまで、親に代わる支援をすることも、国家と社会の責任かもしれない。 18歳なんて、まだほんの子供なのである。 親の育児が不適切と言って、親から切り離して引き取ったのであれば最後まで面倒を見ることが大切なのではないか。
だからといって、自分の人生がうまくいかないことをすべて人のせいにし、刃物を持って自分の面倒をみてくれた施設に乗り込むようなことを許すというのではない。 そういうことが発生しないよう、最後の詰めのところまでやってこそ、一人の自立した社会人となるまで見届けてこその、社会的擁護なのではないか、と思うのである。
そして、経済学的に言えば、反社会的行動をとらない納税者を育ててこそ、かけたお金のコストパフォーマンスが良い、と言えるのではないだろうか。
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