大勝利の夏、日本の夏。
熱田神宮
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宮には熱田神宮があるが、御賽銭も何も書いてないので
行かなかったらしい。
清川は参詣してる
天下に赫赫たる神にて社人大宮司は源義朝の妻。常盤の家にて
信長の時は最も信仰有りて桶狭間大勝利の時、この宮にて
祈祷せし事、人の知るところなり。
東照大神君も幼少の頃、この社人に寄託せられたる。
又、剣の宮にて草薙の宝剣納めている。
剣客だけあって関心があるようです。
鳴海に差し掛かるが彼女の日記には何も記されてないので
人口3643人 旅籠68軒 本陣1、脇本陣2
ここの本陣千代倉家代々の当主は俳句に造詣が深く、芭蕉に
師事し芭蕉の笈などを所持してる事でも有名だった。
有松絞の店が並ぶ
鳴海の清野の日記
それより鳴海に入れば、女皆絞りを絞り居る。
宮入口、熱田大明神の大社あり。女郎多く有り。
8日桔梗屋泊り180文。
小鰈の平、刺身の膾、魚の煮付、随分きれいなり。」
太田南畝は、「有松村の人家は蔵造りにして、絞り染多し。
童の浴衣に竹に虎の形付樽。
又は白手拭に青く染めたるあり」とある。
木綿の絞りで名高く鳴海絞りと云われた。
清野も当然立ち寄って見たでしょう。
然しながら、江戸で反物17反を買っているのでやめたようです。
清川八郎は、3両余の買い物をし江戸の羽州人の定宿である
馬喰町の大松屋に送っている。
但し鳴海は蚊の多きところなりとある
桶狭間を通る
永禄3年(1560)5月19日今川軍2万5千が織田軍5千の強襲を
受け敗退し義元は討死した。
38年後に通った清川八郎もここを通り「諸将討死の首塚も多く有りて
いと寂寥たる景色也」と記している。
尚、太田南畝の「改元紀行」によると、徳川家康はここに来ると、
馬を下りて拝礼したという。
これは、人質であったが今川義元に世話になったからだという。
「人間50年 化天の内に比べぶれば 夢幻の如くなり
一度生を稟け 滅せねものあるべしや」
桶狭間
ここで奇勝を博した信長ですが、二度とこのような博打はせずに
絶えず有利な体制を作ることにしたのが偉い所だと思います。
2度は無いという事を分かってたからです。
彼女・於いとは「桶狭間、今川義元戦場の古跡あり」と日記にある
ドラマも良いけど、大勝利も良いよねぇ~♪
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