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けしからんも多種多様
かつて吉本在籍のアイドルがいたと言っても、今の世代の若者(私もまだ若者だけど)はピンとこないかもしれません。
だけど、いたのです。
しかも、お笑いやバラドル路線でもなんでもない、正真正銘ちゃんとしたアイドルが。
それがポピンズでした。
キャッチコピーは「パピプペポピンズ」(なんじゃそりゃ、って感じだけど)。
デビュー時は「双子の妖精」というなかなかハジけた今で言う電波系に近いコンセプトで登場したのですが、本人たち自身に、当時大旋風を巻き起こしていたおニャン子を追い越すだけのインパクトが足りなかったのか、知名度は「知ってる人は知っている」程度にとどまっています。
デビュー曲は井上大輔が作曲していて、作詞は森雪之丞。
コンセプト通り、メロディーも歌詞も振付も甘ったるすぎるほどに甘さ100%なのこの楽曲は間違いなく秀作なんだけれど、セールスはイマイチでした。
この時はもう、ブリブリのロリ路線。
この双子感っていうのは意外とそれまであるようでない要素だったし、本人たちも「妖精」というコンセプトに違わず可愛いしちゃんとアイドルしてるし歌だってそれなりなんだけれど、同時代にうしろゆびさされ組がいたことがやっぱり不幸だったと言えるでしょう。
うしろゆびは彼女達と真逆で、「背が高く、お姉さん的で、大人しく清楚な高井麻巳子」と「小さくて、幼さがあって、おもちゃみたいなゆうゆ」という二人の「ちぐはぐ感」からくる魅力を上手く楽曲に生かしていたユニットで、加えてアニメハイスクール奇面組とのタイアップという強力な後ろ盾もあり、更に当時のおニャン子の勢いは相当なものだったため、ポピンズよりも魅力的なユニットだったとしても、このうしろゆびと同時代の発進となれば、生き残っていくのは難しかったはずです。
さて、渾身のデビュー曲がイマイチ振るわなかったポピンズは、セカンドで早くも方向転換を図ります。
「妖精」という宙に浮いたような、掴みどころのないコンセプトは早々に手放し、『くちびるH/2』という楽曲で、ちょっぴりエッチでキュートな、ちゃんと実在する女の子に早変わり。
このレコードのジャケットがまたけしからん感じで、真っ白なロングスカートを着ていた『妖精ポピンズ』のジャケットとは、イメージにかなり大きな差異があります。
それまで空を飛んでいたのに、いきなり地に足つけて現実感が出てきた感じですね。
結局このセカンドシングルもヒットとはならなかったのですが、この急速な路線変更は結局その後の彼女達の楽曲を考えると成功だったと言えるかもしれません。
「妖精」というコンセプトのままでは、曲の内容も出来ることもどうしても限られてしまいますし、実際、このセカンド以降、彼女達の楽曲にはかなり自由が出てきて幅も広がりました。
『ホワイト・ランデヴー』なんかは上品なアイドルポップで、彼女達の伸びのある作っていない歌声も相まって、ポピンズ楽曲群の中でも特に素晴らしい出来になっています。
デビュー曲だって好かったけれど、こっちの方が彼女達もやっていて楽しそうに見えるんですよね。
ハモリの好さも生きていますし。
『妖精ポピンズ』はなんと言うか、あの砂糖漬けしたような電子音の連なりや「これでもか」というくらい甘さをつめこんだ歌詞とかに、たまにムネヤケしそうになるんですよね…。私はこっちの方が好きです。
結局、彼女達は「妖精」をやめても、普通に妖精みたいに可愛かった。
むしろ、「妖精」という枠にはめ込んでしまったせいで、彼女達は必要以上に自分を作らなければならなくなって、結果、本来持っていた好さが消えてしまった気もします。
それにしても、あのカオスな時代において、バラドルやイロモノという脇道に逸れることなく真っ当なアイドルであり続けられたというのは本当に素晴らしいことですね。
早々に引退してしまって、レコードの数が限られるのは残念です。
『ホワイト・ランデヴー』とかを聴くと、こういう作っていない、彼女達の本来の個性が生きた曲をもっと聴きたかったと思います。
「けしからん」で学ぶ仕事術
●第3の原子爆弾
1945年8月6日、広島市に原子爆弾が投下されました。そして3日後の
1945年8月9日、長崎市に原子爆弾が投下され、多くの方々が亡くなりました。
この事は、日本人なら誰もが知っている悲しい事実です。
しかし、皆さんは3発目の原子爆弾が落とされそうになっていた事をご存知でしょうか?
そして、3発目が落とされる予定だった、都市の名前は・・・・
なぜ、3発目が落ちなかったのか。
そこには、それを救った2つの奇跡があったからだと、
私は個人的に思っています。
人の命が奇跡的に助かる時、
それは後に、その人が多くの人達を助ける運命に繋がっている事がよくあるのです。
時は、まだ第二次世界大戦が始まる前の日本。
1929年、アメリカのウォール街の株式市場が大暴落します。
これがいわゆる世界恐慌と言われているものです。
アメリカの株式の80%が下落し、1200万人の失業者をだしました。
これはすぐに世界的規模で広がり、世界恐慌となったのです。
日本も当然このあおりを受け、不況になっていきます。
日本は第一世界大戦に勝利した訳でしたが、この頃には世界的に、
もう戦争は止めようという気運が高まっていました。
そこで1930年、ロンドン軍縮会議で日本政府は、イギリスやアメリカに異議を唱える事が出来ず、
日本海軍の軍縮を約束してしまうのです。
これに怒ったのが海軍でした。
第一世界大戦で日本を勝利に導いた海軍を減らすとは何事ぞ!
しかも、当時前年に起きた世界恐慌で、日本も大不況に陥っていて、
多くの企業が相次いで倒産していて、多くの若者が職を失い社会は不安に陥っていました。
そこで、海軍の若手将校達は、「今の政府はけしからん、」と、
ロンドン海軍軍縮条約を締結した張本人の、
若槻禮次郎首相(第28代)を殺害しようと計画します。
ところが、
殺そうと狙っていた若槻首相が、なんと選挙で大負け。退陣してしまうのです。
本来なら、何もしなくても政府は倒れたのですから、
海軍の若手将校達の目的はこの時点で、達せられた訳ですから計画は中止となるはずでした。
しかし、若手将校達は上げた拳を下げる事が出来ず、
善人だった次に首相。犬養毅を襲撃して殺害してしまったのです。
これを5・15事件と言います。
当時日本中が不況だった事もあり、世論は若手将校達に同情的になり、
命を助ける嘆願運動まで起きます。
結果、犬養毅を暗殺したこの海軍の若手将校達は誰も死刑にならず、しかもその後、
軍部の圧力もあり、恩赦で釈放されてしまうのです。
なんと、日本の首相を殺しておいて、釈放で自由の身です。
この事件をきっかけに、日本の政治は軍部が強い立場を強調する様になって行きます。
もう日本の政治は、軍部の暴走を止められない状態でした。
中国では、2年前の1931年から陸軍主導で満州事変が始まっていました。
実はこの満州事変のきっかけとなった列車爆破事件(柳条湖事件)は、
陸軍が中国の仕業だとウソをついて、それを口実に中国を攻めた戦いだったのです。
(余談ですが、満州戦争とは言わずに、満州事変と言うのは、
戦争=宣戦布告があったもの。事変=宣戦布告無しに戦いが始まったもの。です。)
5・15事件で暗殺された犬養毅首相は、満州国設立には難色を示していたので、
軍部にとっては彼が暗殺された事は好都合でした。
軍部は次の齋藤内閣に満州国を正式承認させたのです。
そして、満州国の皇帝には、
清の最後の皇帝・愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)を就任させました。
(後に彼の生涯を題材にした映画ラストエンペラーが作られた)
しかし、それは表向きで、実際は日本の関東軍(陸軍)の指導下にあったのでした。
勿論、世界がそんな勝手に中国に新しい国を作るなど許すはずがありません。
国際連盟は満州国にイギリスのリットン卿を調査に派遣させます。3ヶ月の調査の後、
そもそも満州鉄道爆破事件自体が、日本の関東軍による自作自演の演技だった事を見破り、
国際連盟は「満州国の建設は認められない。満州を国際管理下に置く事」を通達。
42対1
日本だけが賛成)で決議しました。
これをもって1933年日本は、国際連盟の脱退を表明します。
同じ年の秋、ドイツも国際連盟の脱退を表明します。
この時から、日本もドイツも段々と戦争へと進んでいってしまうのでした。
5・15事件の翌年の1933年、昭和三陸地震が東北で起きます。
震源地は、311の東日本大震災が発生した場所と似た様な場所でした。
震度は5とそんなに大きくは無かったのですが、大津波が襲って来て、
死者1522名(岩手1316)行方不明者1542名(津波の引き潮でさらわれたと思われる)の大惨事となりました。
当時日本中が世界恐慌のあおりを受けての大不況でした。
都市部では株の暴落で銀行や企業が倒産し、街に失業者があふれ、全国的に農作物も凶作だった。
そんな時に東北地方に、大津波が襲って来て壊滅的な打撃を与えたのである。
だから当時の東北地方は、江戸時代の大飢饉状態だったと言われ、
あちこちの農家では、栄養不足になった子供達ばかりで、
一家心中を避ける為に、娘を身売りしたという話はしょっちゅうだった。
例えば、青森県では14歳の娘が5年契約450円で売られていった。
当時、陸軍の兵士達は、そんな貧しい農家の出の青年が多かった。
そんな時代背景の1936年。あの有名な事件、2・26事件が起きたのです。
陸軍の青年将校ら1400名が、今の日本の経済危機の原因は政治にあるとして、
国家改造・昭和維新の名目でクーデターを起こしたのです。
この2.26事件で暗殺のターゲットとされたのは、下の7名と警視庁、新聞社だった。
岡田啓介 (第31代内閣総理大臣)
鈴木貫太郎(侍従長)
斎藤實 (内大臣)
高橋是清 (大蔵大臣)
牧野伸顕 (前内大臣)
渡辺錠太郎 (陸軍教育総監)
後藤文夫 (内務大臣)
岡田啓介 助かる
鈴木貫太郎 重傷
斎藤實 即死
高橋是清 即死
牧野伸顕 助かる
渡辺錠太郎 即死
後藤文夫 外出中で無事
この2.26事件で、私が注目しているのは、
奇跡的に助かった下の2人です。
岡田啓介 助かる
鈴木貫太郎 重傷
まず、2.26事件を起こした青年将校達の第一ターゲットは、岡田啓介内閣総理大臣でした。
当日の朝5時、首相官邸に陸軍の歩兵部隊300名が押し入ります。
そして激しい銃撃戦の後、襲撃した部隊の兵士達から万歳の声が・・・
それは岡田啓介内閣総理大臣の暗殺成功を意味していました。
ところが、ここで1つ目の奇跡が起きます。
実は、前の日、偶然にも岡田首相の妹婿の松尾大佐が首相官邸に泊まりに来ていたのです。
しかも、松尾大佐は岡田首相と年格好が似ていました。
だから暗殺隊が逃げる松尾大佐を射殺して、ほかの官邸内に男性は居ないのを確認すると、
岡田内閣総理大臣の暗殺成功と間違って喜んでしまったのです。
実はもう1つ奇跡だった事があります。
それは松尾大佐を殺した時、暗殺隊が確認の為、岡田首相の寝室に行き、
そこに飾ってあった岡田首相の写真と殺した松尾大佐の顔を見比べたのです。
ところが、写真の顔の部分にちょうど銃弾が当たっていて、見比べられず、
年恰好が似ていたという事で、岡田首相に相違ないと判断したのでした。
実際の岡田首相は、女中部屋の押し入れに隠れていて無事だったのです。
そしてもう1人の奇跡の生還者・鈴木貫太郎の場合はもっと壮絶でした。
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鈴木貫太郎が寝ていると、鉄砲を持った8人の兵隊と1人の指揮官が入って来たといいます。
それを見た鈴木貫太郎は、抵抗して戦おうと奥の部屋に行き、刀を取りに行きます。
ここで最初の奇跡が起きました。
奥の部屋にあるはずの刀がありません。これでは戦おうにも戦えません。
仕方なく、鈴木貫太郎は兵士達の前に立ち、こう言いました。
「君らの見る通り、オレは何も手に持って居らん。やるならやれ!」
といって、立ったまま両手を拡げたのです。
すると「最敬札!」と号令して兵隊たちに鈴木に敬礼させた後、「射て」と号令した。
合計4発銃弾が鈴木貫太郎に頭などに当たり、鈴木は倒れました。
辺りは血の海となったといいます。
一人の兵隊が倒れた鈴木の脈を調べて、
「脈があります、トドメを刺しますか?」と隊長に言った。
すると、側にいた鈴木貫太郎の奥さんが、気丈にも
「老人ですからトドメは止めてください。
どうしても必要というならわたくしが致します。」と言ったという。
それを聞いた隊長は、「とどめは残酷だからよせ。」と言って、
倒れた鈴木に対して、「みんな閣下に対して敬礼しろ!」と最敬札させ立ち去って行ったのだ。
しかし、ここからも鈴木貫太郎の奥さんは凄かった。
暗殺隊が退却すると、すぐに夫の止血を始め、医者が来るまでに出血を止めたのだ。
でも、4発も撃たれ、もはや絶望的。
医者が来た時は、心肺停止の状態。
やがて、医者は「ご臨終です。」と告げます。
ところが、ここで奇跡が起きます。
奥さんが「あなた!起きなさい!」と叫ぶと、なんと息を吹き返したというのです。
しかも、もう1つ幸運な事がありました。
兵隊たちが押し寄せて来た時、鈴木貫太郎が戦おうと刀を探しに行ったけど、
見つからなかったので、仕方なく抵抗しないで撃たれたのですが、
もし、刀があったら、9人の銃で、滅多撃ちにされて死んでいたに違いありません。
実は、前の日の事です。
奥さんが、なぜか刀を倉にしまっていたのです。
こうして、いくつもの奇跡が起き、
岡田啓介と鈴木貫太郎の2人の命は、間一髪という所で助かったのでした。
その後、軍部主導で日本は第二次世界大戦という荒波に突っ込んでいきました。
1945年4月。もはや日本の敗戦決定的でした。
昭和天皇は、鈴木貫太郎に首相になって欲しいとお願いします。
しかし、鈴木貫太郎は軍人(海軍)出身の者が政治に関わるべきではないと断ります。
でも天皇に何度も頼まれると断る事が出来ず、最後は承諾します。(第42代内閣総理大臣)
この時、東条英機が反対の意を唱えます。
「陸軍以外の者が総理になれば、陸軍がそっぽを向く恐れがある」
その時に、この重臣会議で東条英機と戦ったのが岡田啓介でした。
岡田が「陛下のご命令で組閣をする者にそっぽを向くとは何たることか!
日本がここまで追い込まれてきたのは陸軍の責任ではないのか!」と怒鳴ると、
東条英機は一言も反論出来ずに黙ってしまったという。
その後、天皇から組閣を命じられた鈴木貫太郎と岡田啓介は、終戦に向けて2人三脚で行動するのです。
当時の内閣は、「鈴木内閣即岡田内閣」と言われ新聞に書かれた事もあったといいます。
終戦間際になっても、陸軍はポツダム宣言受諾に難色を示していて、
無条件では無く、日本からも複数の条件を出すべきだとしていました。
また天皇の聖断(天皇がくだす決断)を引き出すのは困難と考えられていました。
しかし、鈴木貫太郎に首相になって欲しいとお願いしたのは昭和天皇です。
最後はポツダム宣言受諾を実現させたのでした。
後に昭和天皇は、「私と肝胆相照らした鈴木であったからこそこのことが出来たのだと思っている。」
と言ったそうです。
もし、あの二・二六事件の時に、岡田啓介か鈴木貫太郎のどちらかでも死んでいたら、
日本の終戦は、もっと遅れていたと言われています。(NHK)
1945年8月14日。日本はポツダム宣言受諾した。(日本軍の無条件降伏)
実は、アメリカは第三の原子爆弾投下の準備をしていた。
8月14日に第三の原子爆弾がロスアラモス基地から出荷され、
8月20日前後には第三の原子爆弾を投下する
とが可能だった。
その最も可能性があった候補地は3つ。小倉市、京都市、新潟市である。
しかし、新潟県知事はそれを事前に察知して、8月10日には「徹底的人員疎開」なる布告を出します。
これによって、新潟市の中心部は一時無人状態になったという。
これを知ってか知らずか、アメリカ軍は8月14日にいくつもの爆撃機が京都上空を経由したのに、
京都には何も落とさず、愛知県に7発のパンプキン爆弾を投下した。
実はアメリカ軍は原爆を落とす前に、その予行練習として、パンプキン爆弾を落とす爆撃を行うのだ。
広島に原爆を落としたエノラ・ゲイも直前に神戸と名古屋にパンプキン爆弾を投下する訓練をしている。
ちなみに、パンプキン爆弾とは、実際の原子爆弾と重量などほぼ同一になる様に作られた模擬原爆の事である。
だから、これが京都市への第三の原子爆弾投下の訓練と思われるのである。
つまり、
もし、二・二六事件の時に、奇跡が起きて岡田啓介か鈴木貫太郎のどちらかが助かっていなかったら、
京都市に原子爆弾が落ちていたかもしれないと。
END
参考:鹿島の軌跡
礫川全次のコラムと名言
ひなぴし
日本への原子爆弾投下
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#夏休みだし名前もカッコよくしよう
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